第一次南極越冬隊長 西堀栄三郎氏「働きたい、考えたい、喜ばれたいという気持ち」

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お仕事中 いいため話
画像:www.news-postseven.com

仕事というのは単に働くということではありません。

なぜなら「ジッとしておれ」といっても人間は動きたがる本性を持っているわけですから単に動いているということにすぎません。

それは仕事そのものではないのです。

たとえばここに上役というのがいて、下役は上役のいうとおりに動けばいい。

右向けといったらハイといって右を向き、左向けといったらハイといって左を向く。

そういう下役は、人間ではなくて牛か馬と同じです。

上役だけが人間、つまり一方は主人であって一方は奴隷なのです。

こういう関係の中では、下役はほんとうに仕事をしているとはいえないのです。

人間と牛や馬、つまり獣(けもの)とどこが違うかといったら、人間は考えることができる、つまり、人間には創造性がある、ということです。

この創造性ということのために、人間というものは楽しくやろうとしているわけです。

それを、上役だけが人間で、下役は牛か馬だから、お前たちは何も考えなくていいのだ、おれのいうとおりにすればいいのだ、というふうにもしやったとするならば、下役はこの創造性のはけ口を、どこかに探すに決まっています。

それがレジャーであったり、あるいは娯楽であったりするわけです。

何も娯楽やレジャーが悪いといっているわけではありません。

仕事の中で抑えつけられるからそっちへ逃げるというのはどんなものだろうかといいたいのです。

勤め先で、いろいろ仕事の話をしてもシーンとしている人が、ひとたびマージャンとかあるいは魚釣りの話になったら、まるっきり人間が変わったようにイキイキとしてくるなどというのは、明らかにその人は仕事の上で考える余地を与えられていない証拠です。

つまり、牛馬扱いをされているわけです。

ところが、それでいいではないか、創造性を仕事のうえで発揮しないでも、レジャーで発揮したっていいじゃないか、という人があります。

その人は、仕事の報酬、つまり給料というものを、我慢をして仕事をするから、その償いとしてもらっているのだという考え方をしているのではないでしょうか。

つまり、仕事というものはおもしろくないものだ、いわれるとおりに動ていればいいんだと、そういうことになってくるわけです。

私が東芝におりますときに、ある重役から

「どうだい仕事おもしろいか」

といわれました。私は

「ハァ、もうおもしろくておもしろくて、研究を三度の飯より楽しくやっております」

とこう答えましたら、

「そうか、そんなら給料はいらんな」

ここにも、仕事というものはおもしろくないものだという前提があるわけです。

それはとりもなおさず、考えること、創造性というものを認めていないということなのです。

それから、レジャーというようなものでは肝心かなめのもうひとつのものが抜けています。

それは人間の社会性から来ている、喜ばれたい、という本性です。

人間は一人で生きているわけではありません。

このごろマイホーム主義とかいいますが、つまりこれは、奥さんがあり、子供があって、子供に喜ばれたい、奥さんに喜ばれたいと思って、一生懸家庭をつくっているわけなのでしょう。

ましてやそれが家庭ではなくて、勤め先の一緒に仕事をしている仲間、あるいはそのまわりの組織、あるいは国家、あるいは人類というようにだんだんひろがってきたらどうでしょう。

結局、その喜ばれる範囲はちがうかもしれないけれども、要するに人間は、その本性として喜ばれたいという気持ちがあるのです。

南極で越冬中、隊員はみんな非常によく働きました。

何もほかに報酬があるわけではありません。

ひたすら喜ばれたい一心なんです。

一年間便所掃除をしますという男がいた。

その男は一文ももらえるわけじゃない。

ほかの隊員が、「綺麗になって気持ちいいなあ」というのを、フッと偶然立ち聞きでもしようものなら、これはもう効果満点です。

あくる日からまた一生懸命やる。

どうすれば喜ばれるかということを考えて、それで働いているわけです。

このように、働きたい、考えたい、喜ばれたい、人間性はこういうところにあります。

これを生かしてやれば、意欲というものはますます強くなっていきます。

それを手足をくくってしまって自由を与えないでおいて、そして責任を果たせ、責任をとれといっているのは、いいことではないのです。

『石橋を叩けば渡れない。』

生産性出版