
あるとき、禅僧の師弟はある問題について論じあっていた。
長時間論じあったにもかかわらず、弟子は教えの要点を理解するようすがなかった。
とうとう師は杖をとりあげて、弟子の頭のわきをガツンと一撃した。
とたんに弟子は事態をのみこんで、「違うこと」を考えはじめた。
「頭にガツンと一撃」をくらわないことには、私たちは「似たりよったり」の考え方をさせる前提から抜けだせないことがある。
私たちはこの弟子のように、ときおり頭のわきをガツンとやられる必要がある。
こうしてはじめて、習慣的な思考形態から解放され、問題を考えなおすことを強いられ、新たな疑問を感じて、ほかの正しい解答を引き出す可能性が生まれる。
皆さんに「ガツン」と一撃を与えるのは、ときには問題や失敗であり、ときには冗談やパラドックスであり、また、ときには、驚きや予想外の事態だろう。
トーマス・エジソンは、ガツンとやられたことの利点を示す好例である。
若いころ、彼は電信装置の改良に最大の関心を示し、多重電信システム、チェッカー・テープ装置の発明をはじめ、さまざまな電信技術の革新をもたらした。
ところが1870年代の初めに、実業家ジェイ・グールドがウエスタン・ユニオンの電信組織を買い占め、この産業の独占体制を確立した。
グールドがこの組織を所有するかぎり、技術革新は以前ほど必要でなくなる。
エジソンはこの事実にガツンとやられて、電信に明けくれた日常を離れることになった。
そしてやむなく、自分の才能を生かす道を求めて、ほかの分野に目を向けたのである。
それから数年ののちに、彼は電球、発電機、蓄音機、映写機など、多数の発明をしている。
彼はこれらのものをいつかは発明したことだろうが、グールドが与えた一撃が彼にもうひとつの正解を求めさせる刺激になったことは確かである。
私たちは、たいていのことをするのに創造的である必要はないが、「何か違うことを考える」必要に迫られたときには、私たち自身の姿勢がその障害になりかねない。
私はこれらの姿勢を「頭のこわばり」と呼ぶ。
頭のこわばりをほぐす方法は二つある。
ひとつは、それに気づいて、アイデアを生み出みだそうとするとき、一時的にそれを忘れることである。
それができないときには、「頭にガツンと一撃」をくらう必要があるかもしれない。
それで、こわばりを固定している思い込みから解放されるはずである。
『頭にガツンと一撃』
ロジャー・フォン・イーク 著
(城山三郎訳)新潮社
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