
英国のロイヤルカレッジオブアート(以下RAC)は、修士号・博士号を授与できる世界で唯一の美術系大学院大学です。
2015年のQS世界大学ランキングでは「アート・デザイン分野」の世界第1位に選出されており、視覚芸術分野では世界最高の実績と評価を得ている学校と言っていいでしょう。
ちなみに、次々と確信的な家電製品を世に送り出しているダイソン社の創業者であるジェームス・ダイソンは、このRCAでプロダクトデザインを学んでいます。
さて、このRCAが、ここ数年のあいだ、企業向けに意外なビジネスを拡大しつつあるのですが、なんだと思いますか?
それは「グローバル企業の幹部トレーニング」です。
現在、RCAでは様々な種類のエグゼクティブ向けのプログラムを用意しており、自動車のフォード、クレジットカードのビザ、製薬のグラクソ・スミスクラインといった名だたるグローバル企業が、各社の将来を担うであろうと期待されている幹部候補を参加させています。
世界的に高名な美術系大学院とグローバル企業の幹部というのは、どう考えても連想ゲームの最初に出てくる組み合わせではありません。
しかし、こういった取り組みは全世界的なトレンドになりつつあるようなのです。
英国の経済紙フィナンシャルタイムズは、2016年11月13日に掲載された「美術大学のMBAが創造的イノベーションを加速する」と題した記事で、いわゆる伝統的なビジネススクールへのMBA出願数が減少傾向にある一方で、アートスクールや美術系大学によるエグゼクティブトレーニングに、多くのグローバル企業が幹部を送り込み始めている実態を報じています。
「仕事が忙しくって美術館なんかに行っている暇なんかないよ」と嘯(うそぶ)く日本のビジネスパーソンからすれば、グローバル企業の幹部候補生が大挙して美術系大学院でトレーニングを受けているという風景は奇異に思われるかもしれません。
しかし、こういった傾向はすでに10年ほど前から顕在化しつつありました。
例えば「MFA(芸術学修士)」と題した記事がハーバード・ビジネス・レビューに掲載されたのは、2008年のことです。
すでにこの記事では、先進的なグローバル企業において、MBAで学ぶような分析的でアクチユアルなスキルよりも、美術系大学院で学ぶような統合的でコンセプチュアルなスキルの重要性が高まっていることを報じています。
また2005年に出版され、世界的なベストセラーとなったダニエル・ピンクの『ハイ・コンセプト』では、多くのビジネスが機能の差別化から情緒の差別化へと競争の局面をシフトさせている中、粗製乱造によって希少性が失われつつあるMBAと、ごく限られた人しか入学できないMFAとを比較し、学位としての価値が逆転しつつあることを指摘しています。
さらに、クリエイティビティとリーダーシップを繋げ、問題解決におけるロジカルアプローチとは異なるデザイン思考のプログラムが本格的にスタンフォード大学で始まったのも10年ほど前のことですし、北欧系のビジネススクールが「創造性」をカリキュラムの中心に据え、いわゆる「クリエイティブリーダーシップ」を看板に掲げるようになったのもここ数年のことです。
こういったトレンドを大きく括れば「グローバル企業の幹部候補、つまり世界で最も難易度の高い問題の解決を担うことを期待されている人々は、これまでの論理的・理性的スキルに加えて、直観的・感性的スキルの獲得を期待され、またその期待に応えるように、各地の先鋭的教育機関もプログラムの内容を進化させている」ということになります。
実は、こういった変化については、しばしばアート側の関係者の中でも話題になっていました。
私は大学院でキュレーションを専攻したのち、畑違いのコンサルティングの仕事に進みましたが、同窓生の多くはなんらかの形で美術の世界と関わる仕事をやっています。
アート業界に長いこと身をおいている彼らに言わせると、ここ数年で美術館を訪れる人たちの顔ぶれが変わってきた、と言うんですね。
例えば、ニューヨークのメトロポリタン美術館やロンドンのテート・ギャラリーなどの大型美術館には、社会人向けのギャラリートークのプログラムが容易されています。
ギャラリートークとは、キュレーターがギャラリーと一緒にアートを鑑賞しながら、作品の美術市場の意味合いや見どころ、制作にまつわる逸話などを参加者に解説してくれる教育プログラムの一種です。
アート関係者の話によると、このギャラリートークへの参加者の顔ぶれが大きく変わってきたというのです。
確かに、例えばニューヨークのメトロポリタン美術館で実施されている早朝のギャラリートークに参加してみると、以前は旅行者と学生でほとんど占められていた参加者の中に、ここ数年は、グレースーツに身を包んだ知的プロフェッショナルと思(おぼ)しき人たちをよく見かけるようになりました。
彼らは、忙しい出勤前の時間をわざわざ割いて、ギャラリートークに参加してアートの勉強をしているわけです。
『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』光文社新書
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