
それはリッツ・カールトン東京の開業準備で、忙しく都内を動き回っていたある日のことです。
六本木駅に地下鉄が止まると、すらりとした、髪の毛の長い女性が乗り込んできました。
仕事柄、多くの人たちを見てきていますから、姿勢や歩き方、お化粧などから、ひと目でモデルさんだなとわかりました。
混んでいる車内で、ちょうど私と並ぶかたちで優先席の前の吊り革につかまりました。
地下鉄が走りだしてしばらくすると、その彼女が腰をかがめて、前の席に座っている年配の女性の耳元でなにやら囁(ささや)いたのです。
おや、知り合いに気がついたのかな、などと想像して見ていたのですが、どうも様子が違うのです。
その年配の女性は、はっとした表情で、片手で膝の上の荷物を押さえながら、もう一方の手でブラウスの前に手をかけました。
そこでようやく私も気がつきました。
女性のブラウスのボタンがいくつか外れていて、上から見ると下着が見えてしまっていたのです。
それをそっと伝えたのでしょう。
懸命にボタンをかけようとするのですが、なかながとめることができません。
どうやら手が少し不自由だったのですね。
なんだかこちらまで焦ってきます。
とその時、その女性が再びかがみこんで、小さな声で「お手伝いさせてくださいね」と囁き、にっこりと微笑みながら、あっという間にブラウスのボタンを、鮮やかな手つきでとめてしまったのです。
あまりに意外なことに、あっけにとられていた女性。
でもその顔にはすぐに笑顔が浮かびました。
親切が本当に嬉しかったのでしょうね。
「参った!」。
思わず私は心の中で拍手をしていました。
さすがは早変わりや着替えに慣れているモデルさん。
それにしてもなんという自然体でしょうか。
次の駅で、会釈をして颯爽(さっそう)と降りていく彼女の背中に向かって、年配の女性は何度も何度も頭を下げていらっしゃいました。
混みあった東京の地下鉄の車内。
まるで無縁社会や孤独社会をそのまま表しているような、無機質ないつもの通勤時間帯。
でもその時、その一角だけは、確かにあたたかな空気に包まれていたような気がしたものです。
人は誰だって、社会の役に立ちたい、人のためになることをしたいと思っているものです。
「人の気持ちを考えて行動する」という感性、そのためのアンテナとレーダーの感度が、少し弱くなったかなと感じられたら、一度立ち止まって磨き直してみてはいかがでしょうか。
そのためのヒントは仕事の中にたくさんあります。
おおよそプロと呼ばれるような方は、アンテナとレーダーを磨き続けている方が多いように思います。
日々習慣づけて磨くことで、あなたも大きな飛躍を遂げることでしょう。
あのアブラハム・リンカーンもこう言っています。
「もし木を切り倒すのに6時間を与えられたとしたら、私は最初の4時間を、斧を研くのに費やすだろう」
『リッツ・カールトン 一瞬で心が通う「言葉がけ」の習慣』日本実業出版社
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