
読書とは、先述したように知識を得るためのものではなく、過去の人間の心に触れることを言っている。
だから、いくら難解であっても、理解できなくともかまわないのだ。
過去の人間が本に託した「真心」に触れ、感ずればそれでいい。
そのためには、知識を減らすために読むというくらいの気概が必要なのだ。
本物の知識とは、本と向き合い過去の人間の魂と感応した結果として、自分の中に溶け込んで来るものである。
知恵と成るものと言えよう。
だから、積極的に知識を得ようとして本を開くのは読書ではない。
それどころか、知識を得ることばかりに拘泥していては、本に込められた「祈り」を感ずることが出来なくなってしまう。
真に必要なのは、過去の人間の「祈り」を受け止めることである。
「祈り」を受け取るには、知識は捨てなければならないのだ。
「祈り」の精神だけを見つめる。
そうしなければ、自己の心と「祈り」が感応することはない。
先人の「祈り」の響きを聴く。耳を澄ませて聴くのだ。
その時、知識ほど不要で邪魔なものはないということに気付くだろう。
何かを捨てなければ、別の何かは得られない。
_______
「憧れ」の思想
執行 草舟 著
PHP研究所
![]() |