江戸時代にいた、清九郎という人

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清九郎 いいため話
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清九郎往生の前年の七月上旬、原谷村の祐安という同行のもとで法事があり、お参りしている留守中に盗賊が壁を壊して入り、筵の下に入れておいた銀札七匁を盗まれてしまいました。

人びとがそれを聞いて、「盗みに遭われてお気の毒なことでした」と言うと、清九郎は

「盗みをするほどの者ならば、さぞかし不自由をしているであろうに、我が家に入っても何も盗るものがなく、さぞ残念であったであろう。

しかしながら、先日まで菜種を売った代金が銀札で十五匁あったものを八匁は春以来の洗濯料に支払ったので、残りの七匁しか盗って帰ることしかできませんでした。

いつもであれば、この七匁もなかったのですから、よいときに入って来て、手を空しくさせず、わずかでも盗られるものがあって嬉しく思います」

と言ったので、村人たちは興ざめして、

「お金を盗まれてどうしてそんなに嬉しいのか」

と尋ねると、

「私も生まれつき凡夫で、盗人を兼ねているような性分ですが、今はお慈悲のおかげで盗む心も起こらず、かえって盗まれる身になったということは有り難いことです。

もしこの清九郎が五匁、十匁でも人のものを盗んだと評判になれば、私はもちろん、同行の顔まで汚し、再び同行の仲間入りはできません。

盗まれたこと自体、油断があったといえましょうが、私の恥になることでもなく同行の顔を汚すことにもなりませんから、これほど嬉しいことはないと申しているのです」

「盗まれる身になったということは有り難いこと」、これは常識では到底考えられない言葉です。

一生懸命働いて、切り詰めてこつこつ貯めた貯蓄や退職金が詐欺の被害に遭えば、有り難いどころか加害者に怒りや恨みが生じるのが当然です。

それを「有り難いこと」と受け止める心には、物事の優劣・善悪・損得にあまり執われない心が具わっているからに他なりません。

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「妙好人のことば」

白川 晴顕 著

本願寺出版社より