渡辺和子さんは、九歳のとき目の前で父が殺されました。伝えたい【幸せ】の定義。

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渡辺和子さんは、二・二六事件で暗殺された教育総監・渡辺錠太郎氏の娘です。

九歳のとき目の前で父が殺されました。

彼女は二十代後半になってアメリカの修道会に入り、十年ほどして帰国しました。

現在は岡山県のノートルダム清心学園の理事長をされていて、多くの素晴らしい本をお書きになっています。

渡邉和子さんがその修道会にいたときのことです。

食事の準備のために、食卓にお皿を配っていた渡辺和子さんに、あるシスターが寄ってきて訊ねたそうです。

「あなたは今、何を考えながらお皿を配っていますか?」

渡辺和子さんは戸惑いつつ、「いえ、何も考えていません」と答えました。

そのときシスターは、

「あんたは時間を無駄にしています。

なぜ、このお皿を使う人の幸せを祈りながら配らないのですか。

この世に雑用という仕事はないのですよ」

そう教えてくれたというのです。

炊事も洗濯も掃除も、また子どもの世話も会社の仕事も、「しなければならないこと」と考えると、その通りです。

しかし、そこに

「この食事をいただいた人が元気になってくれるように」

「この服を着る人が幸せになってくれるように」

「この廊下を歩く人が笑顔で過ごせるように」

「この仕事で関わる人が、みんな幸せになってくれるように」

と念をこめたら、それは単なる雑用ではなく、また単なる仕事でもありません。

そのように考えていくと、「ねばならない」という作業や仕事はなくなるのではないでしょうか。

日常におけるすべてのことは、周りの人たちの元気や幸せを祈る大切な手段になるのです。

宿泊業の人にこの話をしたところ、大半の人が「宿泊業はとても素晴らしい仕事だったんですね」と言いました。

食事を作り、風呂を沸かし、部屋や廊下を掃除し、それらすべての作業が、「泊まりに来てくれる人の幸せを祈れることだった」ことに気がついたからです。

「ねばならない」と思っていたことでも、実はそれが「幸せを念じられること」だと気がつくと、もっと、そういう時間や場所がほしいと思えるようになるのではないでしょうか。

そしてその念は、必ず目に見えるかたちで現れてきます。

そうなればもう、「ねばならない」と思っていたことも、楽しくて仕方がなくなるのです。

引用:小林正観 著
『22世紀への伝言』廣済堂出版