
ある日、鎌倉にある滑川(なめりかわ)の川辺を、部下を伴って歩いていたとき、彼は誤って10文銭を川に落としてしまいます。
急いで部下たちに川の中をさがさせましたが、なかなか発見することができません。
そうこうするうちに、日が暮れ、辺りが暗くなってきました。
さすがの青砥もこれであきらめるかと思いきや、50文を部下に渡し、町でたいまつを買ってくるように命じたのです。
たいまつを灯して、捜索活動を続けようと考えていたわけです。
それからしばらく経って、たいまつの明かりのおかげで、10文銭は発見されました。
それは確かによいことかも知れませんが、10文を探すために50文を費やしたことについては、どう考えれば正解なのでしょうか。
40文の損失だから、青砥の行為は愚かしいものだと判断すべきなのでしょうか。
捜索活動が終わった後、青砥は部下に次のように話したといいます。
すなわち、「もし自分が川底に沈んだ10文銭をあきらめていたら、天下から永遠に10文が失われてしまったことだろう。
もしそうなったら、自分は天下に申し分が立たない。
それに対して、費やした50文は、町の人々のものになっただけで、失われてはいない。
だから、自分の行為は一切間違っていないのだ」、と。
梅岩は、この青砥の行為を、高く評価しています。
その理由は、彼が「自己の利益」にとらわれず、世の中全体のことを考えて行動したからにほかなりません。
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なぜ名経営者は石田梅岩に学ぶのか?
森田健司 著
ディスカヴァーより
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