人間である以上、何かを信じなければ生きてゆく意味がない

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人生 いいため話
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安岡正篤師の快諾を得たので、志を同じくする好学の士を15人ほど集めた。

月に1回、新橋は「松山」で講義を受け、『十八史略』を読みあげてわかったことは「中国5千年の歴史は動乱と革命の連続である」という事実だった。

50年、100年にわたる「天下の大乱」などは中国史の中では少しも珍しいことではない。

「比類なき太平時代」と謳歌された清朝初期の康熙乾隆朝(こうきけんりゅうちょう)でさえ、せいぜい70年の小康状態にすぎないから、その中で育ってきた漢民族というものは、内乱とか、革命に対しては、きわめて抗毒素の強い民族に成長してきているのである。

中国人といえども、どの民族もがそうであるように、一応、地位とか、財産とか、名誉とかを求めもするし、それを得ようと努力もする。

だが、それらが、いかに空しいものであるかを歴史の体験で知っているのだ。

というのは、ひとたび、革命が起れば、まっさきにやっつけられるのは、地位が高く、財産をもち、名誉ある人間だからである。

このため、何事に対しても懐疑的であり、漢民族特有の虚無感をもっている。

しかし、人間である以上、何かを信じなければ生きてゆく意味がない。

いったい、何を信ずればいいのか。

それは人間が人間を信ずるということである。

それ以外に手はない。

ところが、悪い人間、つまらぬ人間を信じて、これと行動をともにすると、こちらの運命までおかしくなってくるし、逆に、善(よ)き人間、立派な人間と裸の交わりを続けていけば、自分の人生も自ら開けてくる。

そこで、「人を見る明」が乱世を生きぬく叡知(えいち)として発達してきたのである。

「人を見る明」の第一は何か、というと「人相」である。

日本でも「お前の顔にちゃんと書いてある」とよくいうが、そういわれてみると、顔というものは、いくら表面を繕っても、本当のことがすべて出ているわけで、ごまかしのきかぬものである。

人間には精神というものがある。

この精神を磨いて、ある心境に達すると、その精神の輝きが自ずと顔にあらわれる。

そうなると、醜男(ぶおとこ)が醜男でなくなる。

だから、精神の鍛錬を怠っていない人間の顔というものは、何処か違っている。

500人、1000人の中にまじっていて、すぐにわかるものである。

有名な話がある。

アメリカ大統領のリンカーンに友人がある人物を推せんしたところが、いっこうにとりあげようとしない。

無視されたと思った友人が「あれほどの人材を何故、君のブレーンとしないのか」となじると、リンカーンは「あの男の面が気に入らぬ」と答えた。

一層、頭にきた友人が「大統領ともあろうものが、面構えくらいで、人物をとやかくいうのか」とつめよると、リンカーンは言下にいってのけた。

Man over forty is responsible  for his face 《人間、40すぎたら、その面に責任をもて》

40をすぎたら、自分の顔は親の責任を離れて、自己のみの責任になる、というのである。

たしかに40歳にもなれば、医者は医者らしい顔になり、学者は学者らしい、商人は商人らしい、というように職業に関係した顔になってくる。

時々、新聞に悪事を働いた人間の写真が出るが、そういうのに気品のある面は一つもない。

そういえば、シェークスピアにも「神はお前に一つの顔を与え給うた。ところが、お前は自分で別の顔につくり直した」という味な台詞があった。

また、北宋の詩人、蘇東坡と並び称せられた文人、黄山谷の一言がいい。

「士大夫、三日、書を読まざれば、即ち、理義、胸中に交らず、便(すなわ)ち覚ゆ、面貌(めんぼう)、憎べく、語言、味なきを」

人間、三日も聖賢の書を読まぬと、理義の理はものごとの法則、義は行動を決定する道徳的原理で、そういう人生の真理がインプットしないために人間的意味における哲理、哲学が血となり、肉となって体を循環しないからいきおい、面相も悪くなるし、コクのある言葉も吐けなくなる。

例えば、金は掃いて捨てるほどもっているが、何とかして、それ以上に貯めたい。

ごまかしてでも金儲けしたい、と朝から晩まで考えている人間は、たしかにそのことが顔つきにまで現れてくる。

第一、眼に落ちつきがなく、瞳に冷酷な光が宿り、雰囲気に和やかさがなく、誰もがそこへよりつかなくなる。

そんな主人をもつ家庭はひんやりと冷たい。

『人間学』

伊藤肇 著

PHP文庫