
生きていくことは暮らしていくこと。
その暮らしの大半は、メンテナンスだと思うのです。
片づけも掃除も洗濯も暮らしを整えていくためのメンテナンス。
もちろんご飯をつくって食べることも、私たちの命をつないでいくための大切なメンテナンス。
いいえ、メンテナンスという言葉だと、なんだかただのルーティンワークのようで雑務としか捉えられないかもしれない。
だとしたら、これらすべては命をケアするものと理解したらいい。
それでも、これら命のケアはあまりに日常すぎて、積んでは崩す、あまりに切りのないことなので、
ついつい虚しい作業のように思えてしまうもの。
だから、そこで漏れて出てくる言葉は「めんどくさい」。
「片づけるのはめんどくさい」「掃除機をかけるのはめんどくさい」。
疲れてしまって「お風呂に入るのもめんどくさい」。
ああ、こんな役にもたたない数学の「試験勉強はめんどくさい」。
今日の仕事予定の「会議だってめんどくさい」。
「めんどくさい」という言葉は、それこそ、大人も子どもも、性別も職業も問わず多くの人が口にする言葉です。
「めんどくさい」の「めんどう」を漢字にすると「面倒」となります。
「面倒」とは、「手間がかかったり、わずらわしいこと」「体裁が悪いこと。見苦しいこと」といったマイナスの意味あいで意識することが多いけれど、同時に「世話」という意味を持っています。
「子どもの面倒をみる」「後輩の面倒をみる」といったふうに。
そうですね、私たちは、人の面倒をみたり、逆に人から面倒をみてもらったりすることによって、つながりを築いているのだから。
「面倒をみる」ことは、私たちにとって大切な行為。
けれど、その反面、手間のかかることでもあり、厄介なことでもある。
そのため、「面倒」という言葉そのものが「わずらわしく、愉(たの)しくないこと」を表すようになったのかもしれない。
そして、さらに「面倒」という言葉の後ろに「くさい」がついてしまうと、「手間がかかる」「わずらわしい」といった負の側面だけが強調されてしまいます。
母親の「めんどくさい」を耳にした子が「自分は厄介な存在だ」と思い込んだように、「めんどくさい」という言葉は「あなたは味方ではない」というメッセージを発信する。
つまりそのひと言を口にするたび、知らぬ間に「敵」を増やしていると言い換えてもいい。
ましてや、それが無自覚な口癖となって頻繁に発せられているとしたら、知らないうちに周りは敵だらけになっていく…。
もしも、「めんどくさい」を繰り返しつながりを断っていけば、結果的に自分自身を孤立させ、人生の広がりを狭めてしまいます。
「めんどくさい」は、自分との関係も、他者との関係も断ち切る言葉。
「めんどくさい」は、命を育(はぐく)むのを放棄した言葉。
私たちは、好むと好まざるとにかかわらず、死ぬまでは生きていかなくてはなりません。
「めんどくさい」といってさっさと死ぬことができるわけもありません。
生死は神様が決めること。
であるならば、「めんどくさい」という言葉を言い続けることがどんなに無益で、
いえ、無益どころか、自分と周囲の人たちをどんなにか損なう言葉であることを、意識しすぎてもしすぎることはないでしょう。
引用:「めんどくさい」をやめました。
やました ひでこ 著
祥伝社
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