小林正観「ないものねだり」

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ないもの いいため話
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海に魚が泳いでいました。

この魚は、生まれてから一度も海の外に出たことがないため、「海を見てみたい」と願い、念じました。

その魚が泳いでいる岸辺に、人が座り、釣り糸を垂らしました。

魚は、「このエサに食いついてみれば、きっと『海』が見られる」と、パクッと食いつきます。

それに応じて、釣り人は糸を引き、魚は生まれてはじめて外に出ました。

そして、外からたしかに「海」というものを見ることができました。

しかし、苦しい。

「もう十分に『海』の広さ、大きさがわかりました。これ以上『海』を見る必要はないので、海に戻してください」と魚は釣り人に頼みます。

釣り人はその願いを聞き入れ、魚を海に戻してあげました。

この「寓話」の中の「魚」が「私」です。

「海」は「幸せ」です。

私たちは、「海という名の『幸せ』の中に泳ぐ魚」であるらしいのです。

願いや望みや思いがかなうことではなく、生きていること自体が、何もないことが、何も起きず平穏無事であることが、「幸せ」の本質のようです。

「海を見てみたい」と念じた魚の前に釣り糸を垂らしたのが「神様」だとすると、釣り上げられて海を出て、はじめて海を見たものの、呼吸ができなくて苦しいという状態が、もしかしたら「病気」や「事故」なのかもしれません。

平和・平穏を脅かす「災難(病気や事故)」は、平和・平穏である日常生活(当たり前の毎日)がどれほど喜ぶべきもの(幸せの本質)であるかを教えてくれる、素晴らしい贈り物であったとも考えられるのです。

「幸せの本質」を認識できず、その「幸せの海」の中にいながら、「幸せを見たい」、「海を見てみたい」と叫んでいると、神様はその願いをかなえてはくれるようなのですが、「釣り上げられた魚」は、苦しくて、つらいらしいのです。

何かを思い通りにすることや、願いや望みをかなえることが「幸せ」ではないと思います。

平和で、平穏で、穏やかに、静かに、淡々と流れていく「日常」こそ、「幸せ」の本質であるようです。

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ありがとうの魔法

小林 正観 著

ダイヤモンド社