いかにして人物となるか

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海辺 いいため話
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「小学」は「修己修身の学」であり、そこで重要になるのが「道徳」と「習慣」です。

中でも一番、形に表れる点において大切なのが「習慣」です。

「習慣」は我々も日常生活上、一番直接的で大切なものです。

習慣化することを日本では「躾ける」と言います。

裁縫(さいほう)のときに、折り曲げた布がもとに戻らないように仮縫いしておく糸を「しつけ糸」と呼びますが、それと同じでもとに返らないようにする…これが躾です。

要するに「躾」とは、押しつけ、強制です。

現代のように、押しつけは子供の人権を無視することだとして、ほったらかしにしておくと、躾(習慣化)はできません。

かつて日本を訪れた西洋人は「日本人は、決して裕福な生活をしているわけではないが、礼儀作法が非常に立派な国である」と口を揃えて褒めました。

「日本は君子国である。日常生活においても、その良い習慣を持っている」と言われていたのですが、日本の戦後教育は「強制は、子供の人権を無視するものだ」として、先生方が、一歩も二歩も下がってしまいました。

「躾」は、やはり苦痛を伴います。

人間は日常的に苦よりも楽を選びますから、なかなか自律的に行うことは難しい。

途中で挫折することが極めて多いのです。

そこで、外から教えてやることが大切になってきます。

つまり強制です。

その強制が一番効くのが素直な心を持った子供時代です。

成長し素直さがなくなってきたら強制などできません。

良い習慣というものは子供時代に強制しなければなかなか身につかないのです。

「小学」は、この良い習慣というものを非常に大切にしています。

『小学』の冒頭にはこの書を編んだ朱子が、本書の主旨を次のように記し、掃除・挨拶・作法の重要性を説いています。

すなわち、人を教えるのに、洒掃、応対、進退の大事なところ、そして親を愛し、目上の者を敬い、師を尊び、友に親しむ、そういう道を教えることが、自分の身を修め、家を斉え、国を治め、天下を平らかにするもととなる、と。

最初にある洒掃の「洒」という字は、拭(ふ)く、あるいは水を注ぐという意味です。

「掃」は掃くということですから「洒掃」とは掃除の意味。

掃除は清潔を体認させる最良の手段です。

日本の神道の精神は「清く明るく直き心」を磨くことにあります。

神道にとって清い、すなわち清潔ということは非常に重要な要素です。

実際、神社に行くと、ちり一つ落ちていない。

常に清潔に保っているということは、そこに行くことによって、人は自ずから神の心に打たれることができるわけです。

子供というものは、生まれながらにして清潔を好むものです。

子供を育てた経験を持っている人なら、よく分かることですが、おしっこをしたり、うんちをすると泣き出します。

あれは、「清潔にしてくれ」と親に訴えているのです。

それに応えて母親も、おしめを取り替えてやることで、清潔を好む心を育ててきました。

こうしていわゆる清潔を好む習慣をつける。

さらに窓をきれいに拭くことは、明るい子供を育てることに通じます。

子供は、暗いところより明るいほうを好みます。

二つ目の「応対」も幼少のころから、しっかりと躾けていくことが肝心です。

「応」という字は、呼ばれたら返事をすること、「対」は、いろいろ聞かれたことや求められることに対してちゃんと答えることです。

その一番手近な例が挨拶です。

しっかりした挨拶を身につけることは良好な人間関係を育む第一歩です。

三つ目の「進退」というのは座作(ざさ)進退といって作法のことです。

日本には日本の作法があります。

最近は畳の間がだいぶ少なくなりましたが、畳の間の歩き方、座り方、そして礼の仕方などを幼少の頃から教えておくことが大切です。

作法のなかでも特に「禮(れい・礼)」は、非常に大切です。

聖徳太子が設定したとされる「十七条の憲法」は「和を以て貴しと為す」という第一条で知られていますが、第四条に「禮を以て本と為す」とあるのを、見逃しておる人が割合多いのです。

「禮」は重要なものです。

『いかにして人物となるか』致知出版社