
7歳で水泳を始め、1988年のソウルオリンピックで、日本の競泳選手として16年ぶりの金メダリストになりました。
その後、大学の教員となり、海外留学をし、様々な経験を積ませていただきながら、2013年の夏に、46歳という若さで異例の抜擢を受け、日本水泳連盟の会長に就任しました。
このように書くと、何だか人生、順風満帆な感じがします。
しかし、実際は山あり谷ありの連続でした。
子どもの頃から体が弱く、とても世界を狙える選手ではなかったですし、ソウル五輪前には歩くこともできないほどの腰痛を患いました。
次のバルセロナ五輪では大スランプとなり、参加することさえ叶いませんでした。
最初の結婚もすぐに破綻、これまでの成功は強運以外の何物でもないと思えました。
人生の目標も見えず、鬱々とした日々を過ごしていたものです。
しかし、海外留学を体験し、様々な考えを持った人間たちに出会い、少しずつ自分のアイデンティティが明確になっていきました。
僕はなんのために苦しい練習をしてきたのか、どうして金メダルを獲得できたのか、そうしたことをしっかりと振り返ることによって、鈴木大地という人間を知ることができました。
それは、一言で言えば、人と違うことをやろうというチャレンジ精神を持ち、自分を信じることができる人間だということです。
振り返ると、僕はどうすれば早く泳げるかをいつも考える少年でした。
そのためには努力はもちろん、発想を豊かに持てたことも自分らしいところでした。
また絶望的なときでも、命だけは取られないという開き直りと、そのうちいいことがあるという楽天的な性格でもありました。
幼稚園に入園したとき、祖母から通園バッグをプレゼントしてもらいました。
「あしたのジョー」の絵が描いてある青いバッグだったのですが、他のすべての園児が決められた黄色い通園バッグで通っていたにもかかわらず、僕だけはこの青いバッグで押し通しました。
しかし、そのことで先生が僕をとがめたり、他の園児が僕をいじめるようなこともなく、僕は自分だけが違っていてもいいのだと思うようになりました。
思えばこれが始まりでした。
自分だけが違っていても何の違和感もなく育ちました。
自分が信じたことをやり遂げる性格は、きっとこうしたことから育まれたのでしょう。
幼稚園の先生をはじめ、周囲の方々がいつもあたたかい目で見守ってくれただけでなく、人と違ったものを受け入れながら育ててくれたお蔭で、鈴木大地は鈴木大地で生きていけたのだと思います。
多くの関係者の応援のおかげで水泳連盟は、前年の1億5千万円もの赤字を1年で黒字にすることができました。
もちろんこうしたことは20年の東京オリンピック開催が本当に大きな原動力になっています。
日本人が皆泳げるような世の中を作り、東京オリンピックで水泳界が多くの金メダルを取れるよう、会長として努力していきたいと思います。
人生は、常に挑戦。
鈴木大地は一時でも休んだら息途絶えてしまう動物です。
これからも精力的にどんどん動き回って、少しでも日本のために役立ちたいと思っています。
引用:鈴木大地 著
『僕がトップになれたのは、いつも人と違うことを考えていたから』マガジンハウス
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