
「無い」ということはどういうことか。
たとえば私たちの体は、ここに「有る」。
姿形や動作はわかるけれども、「さあ、命を目の前に取り出して見せてくれ」と言われたら、どうしようもない。
命だけを取り出すことは決してできません。
体のどこを切っても、髪の毛一本、爪一枚にいたるまで、すべてに命が「有る」。
ただ、その命自体は見えないのです。
また、もし「平和を見せてくれ」と言われたら、どうするでしょうか。
ニコニコ笑うのか、手をつなぐのか。
でも、笑うことがイコール平和でしょうか。
命と同じように平和が大切だとみな知っていますが、平和がどういうものかは見えていないのです。
逆に、争いであれば、人と人が殴り合ったり、罵倒し合ったり、傷つけ合ったりすることで表せるでしょう。
だから、歴史は目に見える争いの歴史しか学べない。
平和とは、争いのない状態です。
争いという目に見えるものがないのが平和。
ということは、争いがあるから平和かどういう状態なのかが感じられるのでしょう。
目に見えなくても平和があるのです。
大切なものはいつだって目に見えません。
差別と平等、体と命、争いと平和のように互いに交わり合いながら存在しているのです。
目の前に「有る」ものだけにとらわれず、見えていない「無い」ものがあるはずだと思うこと、そこに、思いを馳せることが私たちには必要なのではないでしょうか。
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男の禅語
平井 正修 著
三笠書房
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