
今や、礼儀を、古いとか、形だけのものとして蔑視(べっし)する傾向があります。
「何の得にもならない」と、利益に換算する人もいれば、「こんな忙しい世の中、礼儀などに構っていられない」と言う人もいます。
中には、無礼であることが、むしろ現代的だと錯覚している人もいます。
そして、多くの若い人は、礼儀を教えられずに育っていますが、それは彼らにとって大きな損失です。
なぜなら、「美しさ」というものが、永遠に変わらない、そして人々が追い求める一つの価値だとすれば、
その美しさを創るもの、生み出すものは、礼儀という名のもとに実行される、小さいことの積み重ねだからです。
それは、なぜそうするのかと問われても答えられないような「きまり」を、来る日も来る日も、繰り返して自分に課していった結果、いつしか生まれてくるものなのです。
幼い時、母は私たちに向かって「膝(ひざ)を揃(そろ)えなさい。膝と膝の間を開けて座るものではありません。宮様方は、何時間でもそうしていらっしゃいます」と言ったものでした。
宮様ではあるまいし、と心の中で反撥(はんぱつ)しながら、渋々膝小僧を揃えたものです。
「家の習いが外に出る」という信念のもとに、母は、家の中だから行儀を悪くしていいということを許しませんでした。
食べ物を口に入れたまま話したり、歩いたりすることはもちろん禁じられ、食後すぐ寝そべることは「牛になる」ことであったし、
床の間に足であがること、敷居や畳のへりをふむことは「足が曲がります」という極めて非科学的な理由で禁じられていました。
ふすまや障子(しょうじ)をきっちり閉めない時にも、叱言(こごと)は容赦なく飛んで来たものです。
「でも、よそのおうちでは」と言おうものなら、「よそはよそ、うちはうちです」と言われるのが落ちでした。
今になって思えば、これらの「理由なきしつけ」は、結局、自分との闘いであり、自分をきたえる手だてだったのです。
《「美しさ」は、修業を必要とする》
「美しさ」というものは、礼儀という小さな「きまり」ごとの積み重ね。
自分との闘いの所産。
引用:幸せはあなたの心が決める
渡辺 和子 著
PHP研究所
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