世の中は正直そのものである

世の中は正直

私が今、「世の中は正直」という言葉によって表そうとしているものは、一体いかなることかと申しますと、それは成程ちょっと考えますと、この世の中は、いわゆる「目開き先人、盲目千人」であって、なかなか正しい評価というものは得にくいものだとも言えましょう。

またそこからして、世の中というものは、随分不公平にできているものだとも言えましょう。

たとえて申せば、一方にはくだらない人間が、人に取り入ることがうまかったりして案外な評判を得、真価以上の高い位置についている例も、けっして少なくないことでしょう。

またこれに反して、ずいぶん立派な人でありながら、容易にその真価が認められないで埋もれており、世人もまた多くはその真価を知らず、したがって不遇のままに置かれているという場合も、けっして少なくないことでしょう。

さて、このように幾多の矛盾や不合理がありながら、しかも何故私は「世の中は正直そのものである」と信じているのでしょうか。

私は世の中が不公平であるというのは、その人の見方が社会の表面だけで判断したり、あるいは短い期間だけ見て、判断したりするせいだと思うのです。

つまり自分の我欲を基準として判断するからであって、もし裏を見、表を見て、ずっと永い年月を通して、その人の歩みを見、また自分の欲を離れて見たならば、案外この世の中は公平であって、結局はその人の真価通りのものかと思うのです。

たとえて申しますと、仮にここに、その人の真価以上、実力以上の地位についている人があったとして、このように真価以上、実力以上の地位にいるんだと判断せられることそのことが、すでに世の中の公平なことを示しているものと言えましょう。

つまりあの男は、実力以上に遇せられているぞと、陰口を言われることによって、ちゃんとマイナスされているわけです。

「あれは実力はないんだが、情実によって、あんな柄にもない地位について、得意になっているんだ」などと陰口を言われているとしたら、そのこと自身が、すでにマイナスされている証拠であって、世の中が正直で公平なことの、何よりの証拠と言ってよいでしょう。

そもそも世の中が不公平であるというのは、物事の上っつらだけを見て、ことに短い期間のみを見ているためであって、少しく長い眼で見るならば、結局世の中は、普通の人々の考えているよりも、はるかに公平なものでしょう。

ところが偉大な人になりますと、世の中は正直ということが、その人の生きている間だけでなくて、その人の死後になっていよいよはっきりしてくるようであります。

たとえば藤樹先生や松陰先生のお偉さなどは、その方々が亡くなられてから、初めて十分に現れて来たと言ってよいでしょう。

が、そこまではいかなくても、世の中が正直だということは、この一生を真実に生きてみたら、おのずと分かることだと思います。

それが正直と思えないというのは、結局そこに自分の自惚れ根性がひそんでいるせいです。

同時にこの点がほんとうに分かると、人間も迷いがなくなりましょう。

『運命を創る』致知出版社