
村上春樹「1973年のカップ焼きそば」
きみがカップ焼きそばを作ろうとしている事実について、僕は何も興味を持っていないし、何かを言う権利もない。エレベーターの階数表示を眺めるように、ただ見ているだけだ。
勝手に液体ソースとかやくを取り出せばいいし、容器にお湯を入れて五分待てばいい。その間、きみが何をしようと自由だ。少なくとも、何もしない時間がそこに存在している。好むと好まざるとにかかわらず。
読みかけの本を開いてもいいし、買ったばかりのレコードを聞いてもいい。同居人の退屈な話に耳を傾けたっていい。それも悪くない選択だ。結局のところ、五分待てばいいのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
ただ、一つだけ確実に言えることがある。
完璧な湯切りは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。
小林よしのり「焼きそばかましてよかですか」
わしは、カップ焼きそばを作るには、まず湯をわかせばよいと思っとる。
これは単純なことだ。サルにでもわかる。湯さえあればカップ焼きそばはできる。かやくを入れて麺をふやかせて、ソースをかき混ぜればできあがりだ。
こんな単純なことを、左翼は、左翼的偽善性をもって、湯をわかす正当性を主張しなければ、気が済まない。右翼は右翼で、湯をわかす大義名分がほしい。
こんなことをやっているからいつまでたっても湯はわかない。カップ焼きそばが作れない。
わしは現代のイデオロギーの不毛さが、このカップ焼きそば論争に集約されとると思っとる。
あえて、ゴーマンかますなら、いますぐ、この不毛さを理解してある種の洗脳から解放されろとわしは言いたい。
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「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」
神田桂一 / 菊池良 著
宝島社
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