不運を不幸だと考える必要などないのだ。

不運を不幸だと考える

私は仕事についてすべて計算ずくで行うが、ヒット作品というものはだいたい苦労に比例しない。

悩んで、悩んで、悩み抜いて考えてつくった作品があまり売れなかったり、ふとした瞬間に閃(ひらめ)いたキャラクターがヒットしたりする。

この仕事についていえば、私は20%の才能と、30%の努力と、50%の運だと思っている。

運とは、その人の行動について回ったり、離れたりするもの。

その運が見えた人、運をつかめる体制になれる人が幸せになる。

この業界は、天才ばかり集められるが、その多くが消えていく。

いくら才能があっても運が50%を占めているのだから、成功する人間は一握りだ。

才能があってもプロ意識を持たずに努力をしなければやはり運をつかむことはできない。

才能もあって、努力をして、それでも運をつかめなければ成功できないのだ。

私自身でいえば、非常に幸運な人間だ。

まず、この仕事に気がついたこと、つまり絵で大好きな映画と同じようなことができる、と気がついたことがそもそもの運だ。

これはものすごい強運だと思っている。

私はこの仕事の可能性について、気づくことができた。

そしてそれに気がついたからこそ、運を引き寄せるようになった。

しかし、考えて、考えて、考えても気づけない場合もあるだろう。

そのような人は結局運がなかったということになる。

ただ何もしていなくても運を呼ぶことはできない。

30%の努力が土台となって、さらに20%の才能があって、50%の運を呼ぶことができるのだ。

運が50%を占めることを述べたが、だからといって運のせいにしたり、悪運を嘆いたりすることに意味はない。

しかも運というのは、運をつかんでいることに気がつかない場合が多い。

私のこれまでの人生の中でも、振り返ってみて、あの時はこういう運だったと、歳を重ねてからわかることが実に多い。

人との出会いなど運ばかりだ。

私の場合はあれも運だった、これも運だったと、運がついて回っていた。

なにせ半分が運なのだからそれも当たり前といえば、当たり前だ。

しかし、私は運が悪かったと思っても仕方ない、と考えている。

自分を幸せにしてやれるのは自分しかいない。

だから自分の考え方次第で、幸せが決まる。

そもそも五体満足に生まれてきたことが大きな幸運だ。

私は過去に、網膜剥離の手術を行い、糖尿病を患った。

だから、毎日を元気に過ごせること自体が奇跡だと私は思っている。

私は良いことも悪いことも正面から受け止めるようにしている。

そして幸運には感謝し、悪運を忘れるようにしている。

悪い運だけではない。

私は描いたものもすべて忘れるようにしている。

そうしなければ、新しいものが出てこないし、新しいものを描く意欲がそがれてしまうからだ。

自分の置かれた境遇、直面した運、出会った人、これらのせいにして自分の不幸の原因のあら探しをするのではなく、自分の価値観を持って幸福を感じ取ることを考えたほうがいいに決まっている。

仕事での苦しみや悩みは尽きることがないし、時として運が悪いことに出くわすことがある。

それでも私は、苦境もまたエネルギー源として捉えて、苦境に立つ自分を楽しみさえした。

不運を不幸だと考える必要などないのだ。

だから私はそもそも不幸だと思ったことは一度もない。

『鬼平流』宝島