
「一本の傘」
雨の土曜日。
当時、私が務めていたカラオケボックスは、中高生のお客様で賑わっていました。
夕方になるとフロント付近は帰宅するお客様でごった返し、対応にてんやわんや、その波がひとしきり去りふと入口に目をやると、中学生の女の子がぽつんと一人で立っていました。
親が迎えにくるのかなと思っていましたが、十分、二十分経っても、外を見つめたままです。
私は彼女に声をかけました。
「迎えを待っているなら、中に入れば?そこじゃ濡れちゃうでしょう」
彼女は頷いてフロントにやってきましたが、どうも元気がない様子。
「どうしたの?なんだか元気ないね」
少しの間を置いて、彼女は小さな声で言いました。
「傘を盗まれちゃったみたいで・・・」
私は事務所から自分の傘を持ってきて、彼女に渡しました。
「じゃあ、これ使って。安いものだから返さなくていいよ。傘くらいで、クヨクヨしないで。元気出して帰りなよ」
少女は軽く頭を下げ、無言で店を出て行きました。
「なんだか変わった子だなぁ・・・」
その翌々日。
店に一通の手紙が届きました。
宛名は私になっていますが、差出人は知らない女性の名前。
キャラクター模様の封筒には、丸っこいかわいい文字が並んでいました。
同僚から、ファンレターじゃないのかと冷やかされましたが、中身はまったく違いました。
手紙の主は、一昨日、傘を貸した少女でした。
「実は私、友達からいじめられています。あの日もカラオケの部屋でポップコーンを投げつけられたり、殴られたり・・・。
その子たちと別れた後、もう死んでしまおうと思って、店の入口に立ちすくんでいたんです。そんな時、平野さんに傘を貸してもらって。優しい言葉をかけてもらって、本当にうれしかった・・・」
便箋四枚にびっしりと綴られた彼女の告白を読み進むうちに、私の表情は硬くなり、「なんとかしなくちゃ」という気持ちになりました。
手紙に記してあった彼女の電話番号に電話をかけ「何としても生きてほしい。何かあったら、いつでもここに来ればいいからね」と。
電話の向こうで、彼女は泣いているようでした。
その後、私は部署の異動でその店を離れました。彼女も高校生になって行動範囲が変わったようで、店に来ることはなくなったと聞きました。
そして、時は流れて・・・。
つい先日、その彼女と偶然再会したのです。
街中でベビーカーを押す女性とすれ違った際に、その若いママが私に声をかけてきました。
「もしかして、ラジオシティー(カラオケ店)の平野さん?」
「はい、平野ですけど、どちらさまでしょう?」
「中学生の頃、お店で傘を貸してもらった○○です。あの頃はお世話になりました。私も大人になり、今は子どもがいるんです」
明るい笑顔で話す女性の横顔に、沈んだ面持ちで夕暮れの店先に立っていた少女の顔が重なりました。
「あ、いやいや。全然変わっちゃったから、わからなかったよ。何年ぶりだろう?」
「あの時、平野さんが貸してくれた傘、今も大切に持っています。どしゃぶりだった私の心に、傘を差し出してくれて本当にありがとうございました」
会釈して去っていく彼女に手を振りながら、私も自然と口元がほころんでいました。
あの日、一本の傘がつないでくれた私と彼女の縁。私にとっても、かけがえのない宝物になっています。
引用:雄大感動伝説
雄大株式会社 編
静岡新聞社
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