
人との縁は、自然に切れることはありません。
「袖すり合うも他生の縁」というとおり、出会った人とはすべて大事にすべき「他生の縁」がありますが、その縁が切れるときは、すべて気づかないうちに自分から切っているのです。
出会ったときは名もなき若者であっても、10年後には社長になり、思いがけないところで助けてくれる人かもしれません。
そう考えると、誰を大事にして誰を大事にしないということはできなくなります。
出会う人すべてをあだやおろそかにできないのです。
私はラッキーだった、ツイていたと言える人は、神仏、守護霊、宇宙を味方にしてきたということです。
そして、ラッキーで運が良くて生きてきたというのは、「おかげさま」で生きてきました、と言っているのと同じです。
「私」の力や実力で生きてきたのではなく、目に見える存在、目に見えない存在、みんなのお蔭で生きてきました、ということです。
そして、物事の本質がわかっている人は、素直に人のお世話になることができます。
自分ひとりでちゃんとやっているつもりでもたかが知れているということがわかってくると、人に甘えて生きるということができるようになります。
「失脚」という言葉は、「脚」を「失」うと書きますが、この日本語はたいへん重要なことを教えてくれています。
今まで支えてくれていた「脚」を失った状態を「失脚」と言っているのです。
失脚という場合、その人はそれまで、自分の努力で自分の脚で立っていたと思っていたのかもしれませんが、
実はその人を支え、押し上げてくれていたものから見放されてしまったということだったのかもしれません。
人生という旅の中で出会った人すべてを味方にしていくことが人間の本質です。
反対に、お世話になった人への感謝を忘れていると、もう支援をしてもらえないどころか、敵をつくってしまうことにもなりかねません。
たとえ成功して自分の足で歩いていけるようになっても、その恩を忘れておそろかにしてはならないのです。
人生は味方をつくっていく作業であり、味方をどんどん増やしていくと、その後の人生もずっと豊かで楽しいものになっていくようです。
「ありがとうの法則」というのは、自分が自分の意志で生きているのではなくて、ありとあらゆるものの支援によって生きているということがわかること。
「今まで、人に迷惑をかけずに生きてきたのに、どうして私は病気になってしまったのか」と言う人がいました。
果たして迷惑をかけずに生きるということが可能なのでしょうか。
自分が着ている服の糸一本さえ、自分で織ることはできません。
お茶を飲むときの茶葉も、湯飲み茶碗も、自分で作っているという人は稀でしょう。
それを載せている机も、床も…というように、ありとあらゆることに他者の力を借りながら生きています。
「人に迷惑をかけない」という生き方も立派ですが、実は、そこにいくばくかの「驕り、高ぶり」が見え隠れします。
人間は、ことほどさように迷惑をかけなければ生きていかれない存在なのです。
ですから、「おかげさま」で生きてきた、とすべてのものに感謝をしながら生きていくほうが本質なのかもしれません。
引用:神さまに好かれる話
小林正観 著
五月書房
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