
私が好きな中国の詩人で、陶淵明(とうえんめい)という人がいます。
その陶淵明に「帰去来辞(ききょらいじ)」という詩があります。
彼は41歳で、いまでいう郡の役所の長くらいにまでなりましたが、公務員に嫌気がさし、自分の故郷に帰っていく途中で「帰去来辞」を詠むのです。
その詩の最後に書きつけた言葉が、私は好きです。
「いささか化(け)に乗じて以て尽くるに帰し
かの天命を楽しんでまたなんぞ疑わん」
どんな変化が来てもそれに乗っかり、その変化が尽きるにまかせよう。
そして、これが天命なんだと信じて疑わない。
陶淵明はそう決意を述べるのです。
災害に続けて遭った時などもそうですが、「なんで私らばっかり」と思うものです。
しかし、「なんで私らばっかり」と漠然と感じているときには、どこかでまだ「天命なのではないか」と思っているでしょう。
まだ誰をも恨んでもいない。
誰を恨んでもいない状態はむしろ幸せなのです。
しかし、「仮設トイレはまだできないのか」「役場は何をしているんだ」というように、「災害は誰のせいでもないけれど、いまのこの状況は誰かのせいだ」という主張になってくると、一気に不幸になります。
「事故」というのは、誰のせいで起こったものでもない。
でもそれは、すぐに「事件」になります。
事件というのは、誰かのせいです。
誰かのせいだと思った途端に、人は不幸になるのです。
これは大いなる法則です。
ですから、「天命」という言葉であらかたの変化を受け容れたときに、今を生きる幸せというものは得られると思うのです。
宿命とか運命という云い方があります。
もともと定まっているものとして考えられたのが、「宿命」です。
「宿」というのは「宿場」と使われるように、「とまる」という意味があります。
「運命」の「運」は「うごく」と訓(よ)みます。
これは天と人との関わりが予定もなく変化し続けるという見方です。
同じ境遇に生まれ育ち、似たような人々の間に暮らしたとしても、人はそれぞれじつにさまざまな人生を生きる。
この認識から、おそらく「運命」という言葉が生まれたのでしょう。
皆さんには、是非とも運命のほうの考え方をしていただきたいのです。
その得体のしれない運命の波に、陶淵明は乗るのだと決意しています。
これとほぼ同じことを、孟子は「立命」という言葉で表現したのです。
それと似た態度なのですが、奈良時代には、運命の流れに「為合(しあ)わせる」意味から、「しあわせ(為合)」という和語が生まれました。
運命の流れにうまく為合(しあ)わせることがしあわせであるということです。
室町時代になると、この「しあわせ」に「仕合」の文字が当てられ、相手も天ではなく人を想定するようになりました。
人が刀をもって向き合うことを「仕合」(今は「試合」ですが)と表記したことからもわかるように、「しあわせ」とは相手の出方に対してどう対応するか、というかなり技術的な問題です。
そもそも、運命の波には善意も悪意もなく、要はその波に乗るなり、立つなりできるかどうか、つまりうまく「仕合わせ」られるかどうか。
本人の心構えや技術によるところが極めて大きいはずです。
結局、どっちにでもできるわけです。
最初についていると思ったか、ついていないと思ったか、ただそれだけです。
『流れにまかせて生きる』PHP
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