
ユーモア精神を身につけよ、とは、必ずしも、ジョークをポンポン飛ばしたり、ユーモア・パフォーマンスをなしたり、といったことだけを指すのではない。
これらはむしろ二義的なこと、あえていえば、どうでもいいことである。
第一義的に大切なのは、「ユーモアに対する感性」を身につけよ、ということである。
「笑いがわかる人間になれ」ということである。
落語についていえば、これを鑑賞できる人間になりましょう、ということ。
それさえできるなら、落語的なユーモアへの感性は身についていることになる。
みずから落語を演じることは、必ずしも必要ではないのである。
ただし、やりたい人、その才のある人は、大いになさるとよいわけであるが…
駄ジャレ一つ飛ばすことができないなら、それはそれでけっこうである。
ただし、ユーモリストたちの言行を、「おもしろいな」と思える人にはなりなさい。
それが、ユーモアへの感性があるということ。
「くだらんこと言ってやがる」としか思えないなら、あなたは笑いがわからず、“あそび”ができない、味もそっけもないクソマジメ人間ということになる。
ある表現を用いれば、「笑わせ屋」になる必要は必ずしもないが、「笑い屋」にはなりなさい、ということ。
双方ともになれるなら、もちろん、それに越したことはないが…。
人が笑わせようとしたのに笑ってやらないのは、ヘソ曲がりに非ずば、笑いの感性に欠けているのであり、どちらにしても欠陥人間なのであって、そのような人の人間関係がうまくゆかないのは当然である。
『「笑い」の力が人生をひらく』PHP文庫
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