
もちろんこれは頭の中だけで考えることですが、例えば電車の中で向かい側に不機嫌な顔で座っている人がいたら、その人に「すみませんが笑っていただけませんか」とお願いしてみるとします。
するとその人は、「自分は自分だ。なんで笑わなければならないのか」と怒るでしょう。
私たちは、私一人が存在していると思っていますが、はたしてそうでしょうか。
そのように「独存する私」「実体としてある私」は存在するのでしょうか。
よくよく観察すれば、そんな一人の私は存在しません。
私一人が電車の席に座っているのではありません。
私は反対側に向かい合って座っている人々の中に分散しているのです。
例えば十人の人がいれば、私は十人の一人ひとりの心の中に影像としてあるのです。
ですから私は、「あなたが一人そこに座っているのではない。あなたの向かい側に座っている十人の中にあなたの不機嫌な顔が映っているのですから、できればその方々が気持ちよくなるために、笑っていただけないでしょうか」と訴えたいのです。
自分は自分、相手は相手、このように二元対立するところに争いや苦しみが起こります。
「自分は相手の心の中に現じている」、広くは、ほかの人々は関係的に存在しているというこの事実に気づくとき生き方が変わってきます。
道を歩いていて相手とぶつかりそうになったらよけてあげる。
先にビルの入り口に入ったら、次の人のために扉を押さえていてあげる。
そうすれば種々の日常生活の中で相手に合わせて生きていこうという気持ちがわいてきます。
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「唯識」という生き方
横山紘一 著
大法輪閣
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