
「お師匠さま、よき友を得ることは聖なる道の半ばだと思えるのですが、どうなのでしょうか」
私の考えですが、「聖なる道」というのは「正しい生き方」というような意味ではなかったかと思います。
そのとき、お釈迦さまはこう答えました。
「アーナンダよ、よき友を得ることは聖なる道の半ばではない」
アーナンダは「やはり自分は未熟で何もわかっていない」と、がっかりしたかもしれません。
が、お釈迦さまの口から続いて出てきた言葉は、アーナンダの予想を超えるものでした。
「アーナンダよ、よき友を得ることは聖なる道の半ばではなく、聖なる道の全てである」
お釈迦さまはこう説明しました。
「私(お釈迦さま)を友とすることによって、人は老いる身でありながら老いを恐れずにすみ、病むこともある身でありながら病むことを恐れずにすむ。
必ず死すべき身でありながら、死の恐れから逃れることができる。
よき友を持つことは、幸せに生きることの絶対的条件なのだ」と。
それでは「よき友」というより「師匠になってしまう」との異論が出そうですが、それは本来の「友」という意味が正しく伝わっていないせいでしょう。
本来の「友」とは、遊び相手とか遊び仲間というようなものではなくて、人生上の悩み・苦しみ・苦悩・煩悩を少しでも軽減してくれるような“気づき”を教えてくれる人、のようです。
それは同時に、自分もそういう存在になることが「よき友」と言われる条件ということでもあります。
そのように教え合うこと、学びや気づきを知らせ合うこと、交歓し合うことが「友」というものなのかもしれません。
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生きる大事・死ぬ大事
小林 正観 著
イースト・プレス
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