
平日の昼間。
都内で電車に乗っていたときのことです。
ターミナル駅に着くと、私が立っているすぐ近くの座席が空きました。
乗車口からまっしぐらに座席に向かってきたのは、20代後半と思しき大柄の男性でした。
ラフな格好でしたから、サラリーマンではないのでしょう。
滑り込むようにして腰を下ろした彼は、おもむろにゲーム機を取り出し、せわしなく指を動かし始めました。
こんな光景は、どこでも見られることでしょう。
社内の誰も彼に注意を払いません。
空いた席に若い男性が座った、ただそれだけのことです。
いや、ちょっと待ってください。
本当にそれだけのことでしょうか。
車内を見渡せば、私を含め女性がたくさん立っています。
買い物帰りで荷物を持った主婦。
膨らんだショッピングバッグは、さぞ重たいことでしょう。
ピシッとしたスーツを着て、高いヒールを履いたキャリアウーマン。
おそらく足がむくんでいるに違いありません。
彼女たち全員に席を譲れとは言いません。
男性だって疲れているときがあるでしょう。
どうしても座りたいときがあるかもしれません。
けれど、そこに座っている大柄男は、疲れているどころか、ゲームをする元気があるのです。
うたた寝でも始めたのでしたら、「人知れず苦労があるんだな」と私は思ったことでしょう。
しかし、そうでないのは明らかです。
この世に男はいないのか。
いったい世の中はどうなってしまったのか。
男はいつから己のみかわいがるようになってしまったのか。
あるときから私は、「日本男児」の存在を知ってしまいました。
もはや死語かもしれません。
けれど彼らは、確かに私の目の前にいます。
そして様々なことを私に教えてくれます。
するともう、私はこうした日常の光景に無関心ではいられなくなるのです。
私は先の戦争で戦場となった場所を訪れ、甚だ微力ながら、日本軍将兵の慰霊追悼に努めています。
これは、私にとってのライフワークです。
こうした旅や様々な会合で、私はたくさんの戦争体験者と出会いました。
苛烈な戦場をくぐり抜けてきた人々です。
物腰の柔らかい人もいれば、頑固で偏屈な人もいます。
しかしながら、そうした個性とは別に、ほとんどの戦争体験者に共通していることがあります。
その共通点こそ、まさに「日本男児」なのです。
私は自分の祖父と同世代である彼らに学ぶことが多くありました。
ところが、そんな彼らに敬服しつつ帰国すると「あれ?」「あれれ?」と思うことが少なくないのです。
日本男児はどこへ行った?
戦争体験者はすでに80代から90代。
日本に帰れば電車で席を譲られる年代です。
南方ではそんな彼らが炎天下、ジャングルを歩き回ってピンピンしているというのに、かたや日本では20代の青年が真っ先に電車で席に座り、背中を丸めている。
心に引っかかる何かが芽生えるのは、そんなときです。
『「日本男児」という生き方』草思社
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