
たしかにキリストは、
「求めなさい。そうすれば与えられるであろう。
捜しなさい。そうすれば見出すであろう。
叩きなさい。そうすれば開かれるであろう。
だれでも求める者は受け、捜すものは見出し、叩く者は開けてもらえるのである」
とおっしゃっています(ルカ11・9-10)。
でもこの言葉には、求めたそのものが与えられると約束されていませんし、捜したそのものが見つかるとも約束されていません。
むしろ、その後に、
「子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与える父親が、いったいいるだろうか。
また、卵を求めているのに、さそりを与える者がいるだろうか。
このように、あなたたちは悪い者であっても、自分の子どもたちには、良いものを与えることを知っている。
まして、天の父が、求める者に聖霊をくださらないことがあろうか」(ルカ11・11-13)
と続く言葉があって、求めたものの「代わりに」何かをくださる可能性があることが示唆されています。
祈ることはたいせつなことです。しかしながら「願う前に、その必要とするものを知っておられる」(マタイ6・8)天の父は、人間が願ったことをそのまま叶えることをもって、ご自分の、その人に対する愛の証しとはなさらないようなのです。
なぜならば、私たちはいつも、“欲しいもの”を願っているからであり、神様が私たちに叶えてくださるものは、“必要なもの”だからだと思います。
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どんな時でも人は笑顔になれる
渡辺 和子 著
PHP研究所
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