「昔はよかった」論は不毛なことが多い

人生 いいため話
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「昔はよかった」と言う人は多い。

約3000年程前に書かれたバビロニアの粘土書版にも、「今日の若者は根本から退廃し切っている」、「以前の若者のごとく立ちなおることは、もはや望むべくもない」というようなことが書いてあるとか。

どうして、人間は「昔はよかった」と言うのが好きなのだろう。

もし、いつも「昔がよい」のだったら、人間はどんどん悪化の一途をたどるわけで、バビロニア以来で言えば、現代人は相当悪くなっているはずである。

ところが、一方では人間はこの3000年の間に大いに進歩してきた、とも言うことができる。

それではいったいどうなっているの、と言いたくなってくる。

「昔はよかった」と言う人の話を聞くと、大体は、「自分の子どもだった頃は」とか、「自分の青年時代は」とか、言うことになって、

それに比べて「今の…」はなっていないというような非難につながってくる。

要するに、「自分が若かったときは」あるいは「自分たちは」よかったと言いたいのである。

次に、「昔はよかった」という論議は、それでは今何をすべきか、今何ができるか、という点で極めて無力なことが多いことに気づかされる。

「昔は受験がやさしくてよかった」と言ってみても、それではどうするか、方策がでて来ないのである。

こんなふうに考えてみると、「昔はよかった」論はどうも不毛なことが多いようだが、それにしてはよく聞かされるし、自分もつい言いたくなることが多いのはどうしてなのだろう。

それはやはり、社会の変化に自分がついてゆけなくなったときに、そう言いたくなるのではなかろうか。

現在の若者の生き方についてゆけない。

そのとき、それをそのまま認めるのは残念だったり、腹が立ったりするので、今時の若者はなっていない、というように言いたくなるのではなかろうか。

このために、人間は3000年も昔から、「今時の若い者は駄目だ。だんだんと悪くなる」と繰り返しながら「進歩」してきたのではなかろうか。

引用:こころの処方箋
河合 隼雄 著
新潮文庫