
マザー・テレサがおっしゃった言葉の一つに、「祈りを唱える人でなく、祈りの人になりなさい」というものがあります。
これは決して、口に出して唱える祈りを否定するものではなく、祈りに心がこもっているか、
祈りの内容が自分の日々の生活に沁み通り、実行されているかどうかを問う厳しい言葉と、私は受けとめました。
1984年のことでした。
マザーは、朝早く新幹線で東京を発ち広島へ行かれ、原爆の地で講演をなさった後、岡山にお立ち寄りになりました。
そして再び夜六時から九時頃まで、三つのグループに話されました。
通訳をしていて感心したのは、馴れない土地でも長旅、数々の講演にもかかわらず、
七十四歳のマザーのお顔に、いつもほほえみがあったことでした。
その秘密は、宿泊のため修道院にお連れしようと、二人で夜道を歩いていた時に明かされました。
マザーは静かに、こう話されたのです。
「シスター、私は神さまとお約束がしてあるの。フラッシュがたかれる度に、笑顔で応じますから、魂を一つお救いください」
“祈りの人”であったマザーは、何一つ無駄にすることなく、祈ることを実行されていたのです。
ご自分の疲れも、煩わしいフラッシュも、神との交流である祈りのチャンスにして、
人々の魂の救いに使ってくださいと捧げていらしたのです。
神は、私たちが痛みを感じる時、それを捧げるもの、神への「花束」とする時、その花束を単なる祈りの言葉よりもお喜びになるのです。
私たちは、とかく、自分中心の願いを“祈り”と考えがちですが、祈りには、痛みが伴うべきではないでしょうか。
私も日々遭遇する小さな“フラッシュ”を嫌な顔をせず、笑顔で受けとめ、祈りの花束にして神にささげたいと思っています。
引用:置かれた場所で咲きなさい
渡辺和子 著
幻冬舎
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