夏目漱石「仕事を引き受ける条件」

いいため話 夏目漱石
画像:http://rennai-meigen.com/

夏目漱石(そうせき)の書は何とも言えない気品があって、誰もが欲しがった。

漱石門下の某氏もその一人で、かねがね何度か所望(しょもう)したが、一向に書いてくれない。

ある時、夏目邸の書斎で某氏はついに口を切った。

「前から何度もお願いしているのに、どうして僕には書いてくださらないんですか。

雑誌社の瀧田(たきた)にはあんなにお書きになっているのだから、僕にも一枚や二枚は頂戴(ちょうだい)できそうなもんですな」

漱石は静かに言ったという。

「瀧田君は書いてくれと言うとすぐに毛氈(もうせん)を敷いて、一所懸命に墨をすり出す。

紙もちゃんと用意している。

都合が悪くていまは書けないというと、不満らしい顔も見せずに帰っていく。

そして次にやってくると、都合が良ければお願いします、とまた墨をすり出すんだ。

これじゃいかに不精なわしでも書かずにいられないではないか。

ところが、きみはどうだ。

ただの一度も墨をすったことがあるかね。

色紙一枚持ってきたことがないじゃないか。

懐手(ふところで)をしてただ書けという。

それじゃわしが書く気にならんのも無理はなかろう」

引用:藤尾秀昭 著
『小さな人生論5』致知出版